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まりりん
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カリフォルニア ロングビーチで暮らす老猫のスローな生活。
終戦記念日の今日。 皆さん、いかがお過ごしでしょうか? 家のちびたは お得意の「うとうと」で心地よい午後のひと時を 過ごしました。 「な〜んか今年の夏は涼しくて地球温暖化って騒いでいるのが 嘘みたいだよ〜〜。あ〜睡魔が来たりテ笛を吹く〜」 「気持ち良いにゃ〜」 バッタっ。 と ちびたは このパターンが多い。 ミアちゃんママさんから暑中見舞いとデコチョコを戴きました〜やった〜! ママさん有難うございました! そして8月19日はミアちゃんママさん主催の「夏祭り」ですよ〜 みなさ〜ん、出し物は決まってますか? 決まってない ニャンコは早くね!もう時間が にゃいよ! さて今回で戦争と日系人は最終回です。 猫とは関係ない内容なのに お付き合い下さって有難うございました。 今日も 時間のある方は読んでね。 ___戦争と日系人 その3__最終回 終戦63年。第二次世界大戦を実際に経験された方が 少なくなってきた昨今、日系2世の方の貴重な体験談を 3つ載せます。 以下 高橋さんのお話です。 元第100大隊タカハシさんはマンザーナ収容所から 1944年に志願しました。 「兄も志願して442連隊にいましたし、 家族は全員収容所にいたので何とかしなければ、 という思いがありました。 私達の部隊は訓練を後、2週間残した段階で 急遽フラン戦線に行く事になりました。「失われた大隊」の救出です。 第100大隊の配属になりましたが、 その時は兵士が足りないのは知りませんでした。 その頃前線に出ていたのは殆どが補充兵で 初戦から参戦したハワイ兵は数える程しか残っていませんでした。 そこからイタリア戦線に行きましたが 覚えている事と言えば砲弾の嵐以外にはありません。 その後、イタリアで終戦になりましたが、 もう前進しなくてもいいんだ、、、 という安堵感が何よりも大きかったです。」 元442連隊 アサトさんのお話。 「最初に100大隊が輝かしい戦功を立て 我々が後に続いたワケですが、 やはり何かを証明しなければならないという強かったのだと思います。 だって我々が国のために戦っている時も 家族は収容所の中に居たわけですから。 日系人の口癖は「仕方がない」。 それは出来る事はベストを尽くそうという事です。 それしか手段がなかったのです。」 元MISのフジモリさんのお話です。 「私はフィリピンのルソン島で日本人捕虜の尋問でした。 尋問したのは殆どが農家から徴兵された日本兵で 将校の尋問は日本で教育を受け日本語に長けている 帰米2世(アメリカで生まれたが日本で日本の教育を受け その後アメリカに帰って来た方達)が担当しました。 米兵はマシンガンも撃ち放題だったのに対し、 日本兵は4,5発だけしか与られておらず ロクに食べ物も無かったので、それは可哀想でした。 捕虜兵にはいつもまづタバコを上げ 「日本では生きて帰れば恥と言われるがアメリカではヒーローなんだ」 と説得しました。 (日本人は日本が負けたのを知ると自殺する方が多かった) 戦後、横浜に行った事もあります。 子供達はGIを見つけると「キャンディー」と言って寄ってきましたが 大人たちは鬼畜米英と叩き込まれていたので怖がって 出てきませんでした。」 第二次世界大戦で苦い思い出があるのにもかかわらずベトナム戦争や 朝鮮戦争が起り、2003年イラク戦争が始まりました。 戦争は未だ続いています。 今年の秋には終わると言われてましたが、終わる気配を感じません。 そしてグルジア紛争?!戦争はいつも何処かで起きてます。 イラク戦争が始まった時の話し。 日系人のお友達の弟さんが戦争に行くというの聞き 思わず「止めないの?」と聞いたところ 「本人が行くっていうのだから仕方が無い」と返ってきました。 戦争に行く=人様を殺めるかもし知れない、死ぬかもしれないのに、、、、 私の親族が万が一、戦争に行く事になったら 何があっても止めるのでしょうが アメリカ人の一部は戦争に行き国を守る事を とても誇りに思っていますし その家族も同じです。 確かにイザと言う時は軍に守って貰わなければいけないですし、 日本ももし他国に攻撃を受けた場合アメリカ軍の助けは 必要不可欠だと思います。 しかし戦争をしなければ助けはいりません。 今まで費やした数銃十兆円に昇る資金、死傷者、 資源の無駄遣い、環境破壊、、、、は何の為に? 一日も早く戦争が終わることを望むのと同時に、 もう二度と戦争が起らない事を強く願います。 黙祷。
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